洋館「旧 菊池捍(まもる)邸」

田舎では異質にも思える古い洋館は、とても不思議な感じがして、子供の頃、「誰の家なのかなぁ」と思っていました。

大通りに面したその洋館「旧 菊池捍(まもる)邸」は、全て畳の生活空間と応接空間が分かれているという武家屋敷の間取りを持ちながら、引き戸はなく内開きドアで漆喰壁、天井の意匠(簡単に言えばデザイン)など、外観と共に洋館の作りになっているという珍しい建物です。菊池捍は、花巻出身で、新渡戸稲造の勧めで札幌農学校(北海道大学の前身)に進学、農学者・農業技師として母校の助教授や全国各地の農業試験場長を務め、明治製糖(現・大日本明治製糖)に入社、台湾やスマトラなどに赴任し、重役として活躍しました。この洋館は、妻子が守っていた実家が火事で焼失した為、大正15年に新築したものです。北海道で洋館を見てきた捍が指示したものと推測され、東京の設計師が設計をし、花巻の大工が建てたといわれています。捍本人は、数年しか住んでいないようですが、子供達や、そこに訪ねてくる人々など、取り巻く人物も興味深いものがあります。捍の次男は昭和を代表する写真家、娘の婿には画家(ここで創作活動したことも)、妻の兄は同じ花巻出身の佐藤昌介(北海道帝国大学初代総長・農学博士)など系図もなかなか面白く、日本を代表する彫刻家で画家の高村光太郎が宮沢賢治の弟に連れられ訪れ、秩父宮雍人親王(ちちぶのみややすひとしんのう)が宿泊した記録もあるそうです。当時日本家屋が軒を連ねる中、この建物が目につかないわけがありません。訪問した記録などはありませんが、近所に住む宮沢賢治が、興味を持たないわけがなかったと思います。宮沢賢治が書いた寓話(ぐうわ…教訓や風刺を盛り込んだ内容を、主に擬人化した動物などで表した物語)「黒ぶどう」の舞台のモデルとなった洋館とされています。登場人物のモデルも建物の所有者である捍、その義兄の佐藤昌介、昌介の異母妹・佐藤輔子、輔子に恋をした島崎藤村等が浮かび上がってくるそうです。説明を聞き、読んでみようと思いました。今回6、7月の展示会開催は、菊池捍生誕150周年記念として、期間限定のものでしたが、この貴重な建物と、ゆかりの人々を再顕彰するためにも、今後継続的な保存・活用を図っていきたいと考えているようです。(一部展示会案内文より引用)。

私は子供の頃からの疑問も晴れ、先人の偉大さに触れ、ガイドの方の興味深いお話を聞きながら、大正ロマンにふけっておりましたが、迎えに行く約束をしていた息子からの連絡で、時間がたっていたことに気づき、後ろ髪をひかれる思いでその場を後にしました(笑)。

まだまだ、知らない花巻があります。皆さんの周りにも見過ごしている歴史はありませんか?